自分史

 

1978年日本の東京で生まれ、5歳まで渋谷で生まれ育ち、それ以降は原宿で育つ。

僕は生まれつき、重度の難聴であり、耳から入ってくる情報よりも、視覚をメインに、触覚や嗅覚などに頼って生きていかなけらばいけなかった。

比較すると、健常者は親や友達など周りの人間が喋っている言葉で、文字通り言葉を覚えたりしていく。僕にはそれが難しいと分かった母親はそんな僕に言葉を覚えさせるために、いろいろな場所に連れていって教育してくれた。

 

例えば、山という言葉を覚えさせるために山に連れて行く。海という言葉を覚えさせるために海に、雪という言葉を覚えさせるために雪が降っている場所に連れて行って、実際に見て、触って覚えさせる。それに加えて、たくさんの映画を見せてくれたりした。視覚という能力をメインに物事を判断していく能力を伸ばせたのは、そんな母親の教育が大きいと思う。

 

また当時の渋谷、原宿は高度成長期の日本の勢いで、町中にどんどん新しいビルが建っていき、幼少期の頃にはあった空き地や原っぱなどはどんどんなくなっていく開発ラッシュの中で、自然に触れ合う機会は少ない中で育ってきたと思う。同時に、色んな国の映画や音楽がすごい勢いで流れ込んできて、貪るようにそれらを鑑賞したりしてきたと思う。

 

そんな環境で、視覚芸術である絵や映画などに強い興味を持ち、高校生の頃には、基本的なデッサンを中心に絵を本格的に学び始め、同時に、写実的なデッサンとは真逆に、自分の頭に思い浮かぶイメージをそのまま絵にしていくような空想的な絵を描き始める。

 

そして、絵では飽き足らず、グラフィックデザインに興味を持ち始める。なぜなら、この頃の渋谷では、若者を中心に音楽やファッションなどのカルチャーが大きな盛り上がりを見せており、音楽やファッションという異なるメディアを結びつけるのに、グラフィックデザインは大きな役割を果たしていた。ポスターや、CDジャケット、Tシャツのプリントなどで、様々な情報を魅力的に構成して、若い人たちにアピールしていくグラフィックデザインの存在は、デッサンに明け暮れる絵と比較して、僕には魅力的に思えた。

 

そこで、渋谷にある桑沢デザイン研究所というグラフィックデザインの学校に行き、デザインという基礎を学び始める。この学校を選んだのは、グラフィックデザインの学校として、人気があった事に加えて渋谷のど真ん中にあったというのが大きい。渋谷というカルチャーを肌身で感じながらグラフィックデザインを学ぶことは僕にとって夢のようなことだった。

 

グラフィックデザインを学びながらも、空いた時間があったら絵は描いていた。その頃、アップルからMacが普及し始め、家庭用ビデオもデジタル化が始まり、個人でも映像を作れる時代になってきた。そして、当時の日本の音楽シーンもミリオンセラーがたくさん出ているほどの音楽バブルに浮かれており、たくさんの魅力的なミュージックビデオが作られていた時代だ。グラフィックデザイナーが、映像を作り始めたりした時代の始まりでもあった。そして、そのまま映画業界にも進出を果たしていった。

 

僕の人生の中で大きい意味を持ってきた絵、グラフィックデザイン、映画という異なるジャンルが結びついて一つになった。よく考えてみると、この三つのジャンルに大きな違いはないように思う。どれも、視覚芸術であり、多くの情報を一つの作品にまとめていくという点においては、同じだと思う。

 

グラフィックデザインをやりながらも、絵を描き、映像を作り、映画を作った。当時の先生からは、何しに来たんだとも言われたが、僕のなかでは、異なるジャンルを同時にやることに違和感がなかった。そして、映像を撮っていくうちに、映像や写真の道にはまり、そのまま映像や写真を撮って、イメージビジュアルを作る仕事につき、活動を続けていく。そんな忙しい中でも、個人で絵を描き続けるのはやめなかった。

 

そのような仕事中心の生活を長い間、送っていくうちに虚しさを感じるようになった。

 

その虚しさの正体が分からずに、お酒ばっかり飲んでいた。そして、色々あって、パートナーと共に日本を出た。行き先は、フランスのパリ。

 

パリには、僕の妹が何年も前から住んでいた。妹は絵描きとして活動していた。日本とパリというお互い遠い国に住んでいることに加え、クリエィティブを仕事にしていた僕には

絵で活動していくというビジネスとは真逆な妹のスタンスに、納得がいかず、説教ばっかりしていて、仲悪くはないけど、どこか距離があるような感じだった。そんな妹が住んでいるパリに引っ越す。

 

実は、日本を離れる前に、パリで自分を見つめることを大きなテーマにしようと決めていた。そのためには自分の家族を見つめ直すことが大事なことだと考え、パリに住んでいる妹を題材にした映画を撮ることになっていった。合間に、絵も描き続けていく。

 

慣れない異国の地、今までの常識が通用しない国で、ただでさえ大変な映画作りはさらに大変になり、それに加えて、自分という人間を考えるという答えのない日常は、想像以上にきついものとなったが、家の裏手にヨーロッパで一番大きいという広大な山があり、自然と日常的に触れながら、色々と考ることができたのは大きい。

 

コンクリートジャングルと言われるほどのビル群から広大な自然に

どんどん新しいものが入ってくる東京から、文化的なものを大事にしていくパリに。

 

まったく真逆のベクトルの国に移り住み、僕の絵も変化していった。デジタル的な絵作りに加えて、自然などのオーガニックな要素も加わっていった。

 

そして、気付いていったことが一つ

 

自然などのアナログ的な情報の方が、ビル群などのデジタル的な情報より、圧倒的に美しく、膨大であること。人間は本来、自然的な動物であるという当たり前のこと

この気づきが、都会のなかで生まれ育った僕にはすごい大きいことだった

 

今までの自分の映像や映画、絵などに自分自身、嘘っぽさを感じていた。だけど、本当のリアルも分からない。それが日本にいた時に感じていた虚しさの正体だったと思う

 

自分という人間に正直に作品を作ることの大事さ

簡単そうで、実は難しい

まだできていない自分も感じているが、気づけたことは大きい

いつの間にか、あんな好きだったお酒も飲まなくなっていた

 

妹を題材にした映画作りを終え、パリを後にし、ドイツはベルリンに移り住んだ。今は、完成した映画はコンペに出すなどの作業をしつつ、絵の制作に没頭している

絵は趣味だと、自分で勝手に決めて、人前に見せることを今までしてこなかったけれど、今後は積極的に見せていこうと考えている。

 

 

追記

 

今までは、自分の作品を公的な場に出すことをあまりしてこなかったため、自分自身のことを深く分析することもなかった。作品を作れれば満足。後は見る人が感じればいいと勝手に考えてた。

 

ギャラリーなど公的な場に出すのであれば、自分の事や、絵の説明を求められる。

今までは、無自覚にやっていた事の一つ一つに根拠を求められ、深く考えてみた。

その過程で、どうしても、難聴という障害の事を書く事はさけられないと感じた。

それを書かないと全てが嘘になると考え、難聴という障害が自分の作る作品にどう影響を与えたかを深く分析した。今まで、それをやらなかったのは、障害者という枠が、作品の見方に影響を与える事を避けたかったからだと思う。

 

だけど、この年になったからなのか、多種多様な価値観が共存するヨーロッパに住んだから変わっていったのかは分からないが、難聴という障害が、作品に深く影響を与えている事に対して、受け入れていこうと思えた。